種田山頭火の街を訪ねて

早稲田大学環境総合研究センター 石 太郎
編集者註:石太郎氏は杉田久女のご長女昌子氏のご長男で、久女の孫に当たる

平成25年1月21日の久女忌に今年も北九州市を訪問した。この訪問の折に久女・多佳子の会の柿本会長、久末事務局長のご案内で、山口県防府市の俳人種田山頭火の街を訪ねる機会を得た。毎年、久女忌を機会に俳句に関連する土地を紹介していただいているが、今年は種田山頭火という異色の俳人のゆかりの地である山口県防府市を訪ねることができ、俳句に対する新たな気付きがあったのでこれについて紹介する。

柿本会長に山頭火の街に連れていっていただくまでは、山頭火の名前しか知らなかった。防府駅前の地域交流センターにある山頭火コーナーに入ると山頭火の人となりがわかる。山頭火は自由律俳人と言われており、確かに山頭火の俳句は、五-七-五の規律を基準に考えるとこの枠の中に入らない。これは俳句の流儀から見ると様々な論議を生むことであろう。しかし、山頭火の俳句に接していると形式を超えた、山頭火の感性と世界観が素直に体の中に入ってきて安らぎを感じる。この感覚が山頭火俳句の真髄だと思う。
山頭火は、明治15年12月3日に防府市に生まれている。山頭火の生家跡を訪問したが、今は家はなく生家跡の四阿となっており、その屋根の下には大きな句碑がある。

句碑は「うまれた家はあとかたもないほうたる」というもので哀愁を感じさせる句である。
山頭火の生涯は、防府時代(宮市、明治15年~明治39年)、防府時代(大道、明治39年~大正5年)、熊本時代(大正5年~大正15年)、漂泊行乞時代(大正15年~昭和7年)、其中庵時代(山口市小郡、昭和7年~昭和13年)、風来居時代(山口市湯田温泉、昭和13年~昭和14年)一草庵時代(松山市、昭和14年~昭和15年)と驚くほど住みかを変えている。最後は松山市にて昭和15年に59歳で死亡している。知れば知る程様々な事情を背景に波乱万丈の生涯を送っている。この時代によくここまでの生涯を生き抜けたものだ。しかも山頭火は、明治35年には早稲田大学文学科で学び、坪内逍遥から、ゾラ・モーパッサン・ツルゲーネフなどの自然主義文学の影響を受けている。そしてこの波乱万丈の生涯を決定づけることは、この多くの住居を変える中で、東北地方、長野地方、木曽路や東海地方、瀬戸内地方、山陰地方、四国地方、九州地方等全国を行脚し俳句を作っている。しかも地方によっては複数回の行脚をしており、その行動範囲の広いのに驚かされる。旅とともに人生を送っているということがわかる。まるで取りつかれたように行脚している。北九州では、小倉、八幡、中津、他福岡県内を始め、佐賀県、長崎県、大分県、熊本県、宮崎県など広範囲に及んでいる。これだけの吟遊俳人はいないのではないだろうか。

山頭火がこのように行脚し句作をした時代は、丁度杉田久女が活動した時代にも重なっている事を思うと、その時代の共通性と俳句からにじみ出る感性に親しみを覚える。また、松尾芭蕉のように、自然と旅に自分を重ね旅の中で人生を考えることに没頭したのではないだろうか。様々な人生における背景が旅に山頭火を駆り立てたように思われる。山頭火は「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ」と述懐し「歩く、飲む、作る、これがわたしの三つのものである。山の中を歩く、そこから私の心身の平静が与えられる」と言っている。山頭火の心境と旅の生涯を言い表している。
このような背景を知って防府市の山頭火の小径を歩くと、一軒一軒の家々に花と俳句の木札が掲げてあり山頭火が偲ばれた。これを読みながら山頭火の心境や時代背景を想像するのは楽しい文学の時間であった。当時暮らしていた時の山頭火の心情に思いを馳せる。

この小径をあるいて行くと、いつの間にか防府天満宮の参道に出た。天神山を背景に
威厳の天満宮である。昨年の久女忌には、柿本会長に大宰府天満宮に連れていっていただいたが、防府天満宮は、それとはまた一味違った趣がある。太宰府程の大きさはないが、階段の上に天神山を背景にそびえる天満宮はとても威厳がある。大宰府ほどの人がいない分、とても澄みきった雰囲気が漂っていた。山頭火は、

「ふるさとは遠くして木の芽」

「晴れて鋭い故郷の山を見直す」

と天満宮を詠っている。山頭火の句に浸っているとふるさとへの距離感やふるさとへの懐かしさが同居し、それが何とも言えぬ寂寥感を感じさせ句の奥行きを深めている。そして自然の草木への生命感が句から沁み出ており、句の形式を超えた厚みになっているように感じる。自然への生命感と自分の感情が素直に移入されている山頭火の句に大いに感動した。これは久女俳句の女性らしい句感と自然への生命感と共通する部分があるように思いながら山頭火の街を歩いた。

柿本会長や久末さんのおかげで、今年も久女忌の機会に俳句の世界の幅を広げることができたことに感謝している。俳句というのは、歴史や伝統もありここまでの文学としての積み上がってきたもので、原則として守るべき規律の継承は必要と思うが、山頭火の俳句に浸っていると基本的に重要なことは、その本人の感性、感情が原点であることを感じる。おそらく山頭火は、自分の境地、心境を表す場として自由律俳句として我が道を進んだのではないだろうか。山頭火の俳句を読んでいると、形式にこだわることを忘れて、奥に潜む自然への安らぎを感じる。俳句の感性を養うのにとてもよい句の数々ではないかと思った。
防府でもう一つ忘れ難い訪問をしたので紹介する。これも柿本会長のご案内である。防府天満宮を訪問した後に、すぐ近くの防府の国分寺を訪問した。

この国分寺は弘法大師の仏殿で、毛利家が建築したものである。この仏殿の中には、平安時代、江戸時代からの薬師如来座像、日光菩薩像、月光菩薩像、四天王像、不動三尊、阿弥陀如来立像、阿弥陀如来座像、金銅毘盧舎那仏座像、金銅生仏等々、国宝級の仏像が所狭しと鎮座していた。東京等で公開したら連日満員で長蛇の列になるだろうと言うほどの貴重な仏像で一杯であった。このようなところにひっそりと国宝級のすばらしい仏像群に囲まれた空間にゆっくりと浸れたことは、本当に幸せな時間であった。いつまでもこの空間に浸っていたい気持だった。仏像群の奥から歴史の遠くのまた遠くから当時が湧きでてくるようであった。防府という街で、山頭火やこのような仏像群と巡り合えたことは、本当に収穫の多い一日だった。

最後に「青嶺」の2013年2月号を読んでいたら、たまたま柿本会長の書かれた文章が目に止まった。ここ数年は「歩く」ということをテーマに長距離ウオーキングをされているということである。その文中に、「・・・民俗学者の五来重は『人間は自然と言う空間の座標と歴史という時間の座標の上で人間性を回復する。それは歩く旅で始めて味わうことができる』と述べている。そして日本の庶民文化は歩く旅から生まれた。・・・・」と書かれている。まさに山頭火の境地に通じるものがあるではないか。柿本会長も山頭火に心を重ねて、紹介して頂いたのではないかとも感じた。
今年も新しい俳句の世界に浸ることができて本当に良かったと、充実と感謝の気持ちで防府を後にした。電車に沿った美しい夕日を浴びて、明日は久女忌だと漠然と思いながら。  『平成25年2月』

【参考資料】
防府の生んだ癒しの自由律俳人 山頭火、防府文化協会編集発行、

【写真:種田山頭火生家跡にて柿本会長と(久末氏撮影)】


【写真:山頭火生家の句碑】

【写真:山頭火の小径の家々に掲げている山頭火俳句】

【写真:防府天満宮】


【写真:防府天満宮入口と参道】


【写真:防府市国分寺山門と境内】