平成30年 久女忌を終えて

 平成30年1月21日(日)午前10時に、北九州市小倉北区妙見町の圓通寺本堂で、久女忌が執り行われました。

 最初に、久女・多佳子の会の久末隆彦会長が、「久女が大正5(1916)年に俳句を始めて、百年が経った。久女は師の高濱虚子に宛て、『百年の友を死後に求めるだけです。』と書き送った。まさに、ここにお集まりの皆様がその友だと思う。」と挨拶しました。


主催者挨拶をする久末会長

 

 続いて、ご来賓としてご出席いただいた北橋健治市長から、「今日は、愛知県豊田市小原町から、遠路ご参加いただき、お礼申し上げる。市は、1月16日(火)に、『杉田久女・橋本多佳子記念室』を小倉城庭園の一角にオープンした。今後とも杉田久女、橋本多佳子の業績を称える取組みを続けていきたい。」と、ご挨拶をいただきました。


来賓挨拶をする北橋市長

 

続いて、ご来賓の愛知県豊田市議会 牛田朝見議員から、「子どもの頃、石太郎さんと一緒に、小学校に通っていた。杉田家の前を通らないと学校に行けなかったが、久女の夫の宇内さんは、私たちの学校の行き帰りを必ず見守ってくれていた。教育者であったのであろう。久女さん、宇内さんをご縁に、これから豊田市と北九州市の交流が盛んになるよう願っている。」と、ご挨拶をいただきました。

来賓挨拶をする牛田豊田市議会議員

 その後、圓通寺の林久照ご住職がお経を上げてくださるなか、参加いただいた約60名の方々が、一人ずつ久女の好んだ白菊を手向け、偲びました。

 

 

 続いて、当会の吉富和男会員が、

 鯛を料るに俎せまき師走かな(大正6(1917)年1月ホトトギス台所雑詠初入選)

 艫の霜に枯枝舞ひ下りし烏かな(大正7(1918)年4月ホトトギス雑詠初入選)

 釣舟の漕ぎ現はれし花の上(桜の句 延命寺(小倉郊外))

 を、朗々と読み上げ、献句しました。

久女の句を献句

 

 最後に、久女のお孫さんの石太郎様から、ご遺族を代表して、「デジタル文化が急速に進む時代、俳句を詠むことで生み出される感性を、次世代にも伝えていきたい。」とご挨拶をいただきました。

 

遺族を代表してご挨拶する石太郎氏

 

 久女忌に続いて開催された講話会では、小倉北区役所が平成9年3月に開催した久女追悼講演会「清艶高華の俳人 久女を語る」と題した圓通寺林文照前ご住職(故人)の講演ビデオを視聴しました。

 続いて、市文化企画課の金田典子さん、市立文学館の中西由紀子学芸員に、オープンしたばかりの『杉田久女・橋本多佳子記念室』の展示品について、解説をしていただきました。

平成29年 久女忌を終えて

平成29年1月21日(土)午前10時に、北九州市小倉北区妙見町の圓通寺本堂で、久女忌が執り行われました。今年の久女忌には、久女の夫・杉田宇内の出身地である愛知県豊田市小原町から、小原ガイドボランティアの皆様はじめ6名の方々が遠路参加してくださいました。

 冒頭、当会の柿本和夫会長が、「女性俳句は今、たいへん盛んだが、その出発点が久女だった。偉大な俳人が北九州から生まれたことは、市民にとって大きな遺産である。久女の作品をより多くの人に知ってもらえるように活動を続けたい。」と挨拶しました。


  主催者あいさつをする柿本会長

 

 続いて、ご来賓としてご出席いただいた北橋健治市長から、「今日は、愛知県豊田市小原町から、遠路ご参加いただき、お礼申し上げる。文学館では、久女顕彰の一環として、久女さんの随筆や評論を一冊にまとめた文庫本を発行した。現役俳人が選んだ「女性俳人この一句」という本があるが、その5位は、久女の「谺(こだま)して山ほととぎすほしいまゝ」、1位は「花衣(はなごろも)ぬぐや纏(まつわ)る紐(ひも)いろいろ」である。本市にゆかりのある優れた俳人だと改めて感じている。「文学の街北九州」を目標に、全国に発信し、文化の振興に努めてまいりたい。」と、ご挨拶をいただきました。


来賓挨拶をする北橋市長

 

 続いて、ご来賓の愛知県豊田市議会 牛田朝見副議長から、「子どもの頃、石太郎さんと一緒に、小学校に通っていた。杉田家の前を通らないと学校に行けなかったが、宇内さんは、猟銃を持って家の前に立っていた。後で調べると、西部劇に出てくるウィンチェスターという銃であったが、当時は誰も持っていなかった。私が18歳の時に、宇内さんは亡くなった。久女さん、宇内さんをご縁に、これから豊田市と北九州市の交流が盛んになるよう願っている。」と、ご挨拶をいただきました。

来賓挨拶をする牛田豊田市議会副議長

 その後、圓通寺の林久照ご住職がお経を上げてくださるなか、参加いただいた約50名の方々が、一人ずつ久女の好んだ白菊を手向け、杉田久女を偲びました。 

白菊を一人ずつ献花

 

 続いて、当会会員の中島順一が、楊貴妃桜を詠んだ三句

 風に落つ楊貴妃桜房のまゝ

 むれ落ちて楊貴妃桜房のまゝ

 むれ落ちて楊貴妃桜尚あせず

 を、朗々と読み上げ、献句しました。

楊貴妃桜の3句を献句

 

 最後に、久女のお孫さんの石太郎様から、ご遺族を代表して、「母 石昌子が亡くなったのが平成19年、もう10年経ったのかと思う。久女の50回忌の時に母はここへ来た。先代の林文照ご住職から、過去のしがらみにとらわれるのは、もうやめなさいと諭していただいた。没後70年の記念の年である昨年9月、文学館の今川館長に小原に来て講演していただいた。小原と北九州の交流が始まったのも、皆様の支えがあってのことと思う。今後ともよろしくお願いしたい。」とご挨拶をいただきました。

 

石太郎氏(久女のお孫さん)の挨拶

 

 久女忌に続いて開催された講話会では、小倉北区役所が平成9年3月に開催した久女追悼講演会「清艶高華の俳人 久女を語る」と題した山口県立大学名誉教授 上野さち子先生(故人)の講演ビデオを視聴しました。

 続いて、市立文学館の中西由紀子学芸員が、杉田久女没後70年記念事業の総括と文学館の今後の企画について、お話をしていただきました。文学館では、文学館文庫別冊として、久女の俳句、随筆、評論を一冊にまとめた「杉田久女頌(しょう)」を発行したほか、3月から企画展「落椿 杉田久女・橋本多佳子展」を開催する予定です。

平成28年 久女忌を終えて

平成28年1月21日(木)午前10時に、北九州市小倉北区妙見町の圓通寺本堂で、久女忌が執り行われました。今年は、久女没後70年の記念の年に当たり、また、久女・多佳子の会が、執り行うことになって20回目の節目となる久女忌でした。

 冒頭、当会の柿本和夫会長が、「久女は、今では近代日本を代表する女性俳人であるという評価が、ゆるぎないものとなった。久女を後世に伝えていくことが、北九州市の文化土壌を豊かにする。」と挨拶しました。


  主催者あいさつをする柿本会長

 

 続いて、ご来賓としてご出席いただいた北橋健治市長から、「今年は文化振興計画を作成する。さまざまな文化活動を通じて、市を活性化させていきたい。」とのご挨拶をいただきました。


来賓挨拶をする北橋市長

 

 その後、圓通寺の林久照ご住職がお経を上げてくださるなか、参加いただいた約60名の方々が、一人ずつ久女の好んだ白菊を手向け、杉田久女を偲びました。

続いて、当会会員の寺田和子が、鶴の句三句

大嶺にこだます鶴の声すめり

ふり仰ぐ空の青さや鶴渡る

鶴舞ふや日は金色の雲を得て

を、朗々と読み上げ、献句しました。

 

鶴の句3句を献句

 

 最後に、久女のお孫さんの石太郎様から、ご遺族を代表して、「北九州で20年にわたって、久女忌を続けていただき、感謝している。」とご挨拶をいただきました。

石太郎氏(久女のお孫さん)の挨拶

 

没後70年に当たる今年は、久女研究の第一人者であり、自身「美と格調の俳人 杉田久女」の著書がある、俳人で東洋大学名誉教授の坂本宮尾先生を特別講演会の講師として、市にお招きいただきました。

 坂本先生は、特別講演会で、「杉田久女-その実像を追って」と題し、「久女は、言語感覚が鋭く天才的な側面もあったが、努力も惜しまなかった」と述べたほか、久女の生い立ちや句を紹介しながら、「悲劇の俳人」と呼ばれた理由を説明しました。当時、句集発行には師の序文を仰ぐのが習わしで、久女は師と仰ぐ高濱虚子に繰り返し手紙で序文を懇願したが、無視されました。背景には、俳句結社を運営する虚子に、次女の星野立子や門下の中村汀女をスターにしたいとの考えがあり、「久女が先に句集を出すと影響が大きく、虚子は久女に句集を出させたくなかったのではないか。」との見方を示されました。

 

坂本宮尾先生の特別講演

 

  

 俳誌「ホトトギス」を除名された後、久女は句集のための草稿を作り、没後、久女の長女の石昌子さんが、それをもとに、虚子から序文ももらって『杉田久女句集』を刊行しました。句集の草稿は、圓通寺に奉納されています。

 坂本先生は、「草稿はいわば遺言状。孤独の中でこつこつと俳句を作った生き方を思うと、襟を正さずにいられない。」と述べ、参加者の多くが共感を覚えました。

(本文記事作成に当たり、毎日新聞、読売新聞、西日本新聞の久女忌報道記事を参考にさせていただきました。)

平成27年 久女忌を終えて

 俳人杉田久女を偲ぶ『久女忌』が、1月21日(水)北九州市小倉北区妙見町の圓通寺(えんつうじ)で開催されました。
 冒頭、主催者である「久女・多佳子の会」の柿本和夫会長は、「今年は没後69年、久女は非常な才媛であった。大正5年に俳句を始め、大正8年には有名な「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」をなした。この間わずか3年である。御茶の水女子高等師範学校附属高等女学校を出、教養が高く、俳句の天性の才があった。56歳で夭逝したが、長生きしていれば大きな軌跡を残しただろう。もともと俳句は男の文芸であったため、女性俳人は少なかった。高濱虚子が台所俳句を創設し、女性に句作を勧めた。そうしたなかで、久女はあっという間に賞を取るようになった。ピークは昭和6年英彦山で詠んだ「谺(こだま)して山ほととぎす欲しいまま」の句で、全国10万余句の中から帝国風景院賞を受賞した時であろう。現在、俳句に親しんでいるのは圧倒的に女性である。近代俳句は、女性が主力となっている。このルーツをたどれば久女に行き着く。日本の文芸の発展に大きな力となった。北九州が生んだ俳句文化を今後とも継承し、久女顕彰を続けて行きたい。」と述べました。


  主催者あいさつをする柿本会長

 

 ご来賓の小倉北区役所寺田朝孝区次長から、「命日に毎年久女忌を開催していただき感謝している。久女は北九州ゆかりの女性芸術家である。大正中期から活動したが、女性俳人が活躍するにはむずかしい時代であった。しかし、俳句に強い夢を持って時代を切り拓いた。その情感ある作品は時代を経ても少しも色あせていない。その功績をたたえながら、次世代に引き継ぐことが必要。昨年10月に開催された櫓山荘子ども俳句大会には、4千句の応募があった。感性ある心豊かな子どもに育って欲しい。俳人久女を輩出したことは北九州の宝である。今後のまちづくりに生かし、地域の誇りとしたい。」とご挨拶をいただきました。


  来賓ごあいさつをいただいた小倉北区役所の寺田区次長

 


  ご挨拶のあと、林久照ご住職がお経を上げてくださる中、参列者約50名が一人ずつ久女が好んだ白菊を遺影に手向け、焼香を行いました。

 


  白菊を献花する参加者

 

  続いて、久女・多佳子の会の小川巌会員が参列者を代表し、久女の北九州の冬から春を詠んだ
     かき時雨れ熔炉は聳(た)てり嶺近く
     くぐり見る松が根高し春の雪
     春潮に流るる藻あり矢の如く
 の3句を朗々と読み上げ、献句をしました。


  久女の句を読み上げ献句

 

 最後に、久女のお孫さんの石太郎様(久女の長女昌子さんのご長男)から、「長年母昌子の傍にいて、昌子が久女を復活させた葛藤を見てきた。『杉田久女句集』は昭和27年10月に刊行されたが、電子メールやインターネットの無い時代、本当に苦労して、努力して母は句集を発行した。平成20年北九州市立文学館が久女句集を復刻していただいた。こうした出版物や研究書が世に出るようになった。昨年は、杉田家のある愛知県小原村(現豊田市)で、第3回杉田久女俳句大会が開催され、そこで講演をすることができた。久女を考える良い機会となった。高齢化社会にあって、若い人は都会に出ていき、文化を継承していくことはたいへんなこと。心に潤いを与えてくれるこうした活動は、北九州の持つエネルギーのひとつとして、これからも続けられることを切に願いたい。」とご挨拶をいただきました。


  石氏(久女のお孫さん)のごあいさつ

 

   久女忌に引き続き、講話会が行われました。講師に北九州市立文学館の中西由紀子主任学芸員をお招きし、久女についてお話をしていただきました。
 今年は、『杉田久女と女性俳句評論』と題して、久女自身が執筆した随筆や評論、はがきなどの資料をもとに、久女の言葉を通して久女の女性俳句に対する考え方や姿勢を、中西学芸員が分析、構成した研究成果をわかりやすく読み解いていただきました。以下は、解説いただいた内容を要約したものです。読みやすいように、原文表記を適宜現代かなづかいに改めています。


  中西学芸員の講話の様子

 

 俳句に全身全霊でぶつかっていった杉田久女は、やがてつまづき、傷つき、俳句から距離を置いた。5年ほどの冬眠ののち、「俳句の古巣」へ帰る際に携え、俳句と並行して取り組んだのが、「女性俳句の評論」だった。久女は「女性が俳句を作る」ことに何を見出そうとしたのか?

○つまづきと冬眠
ひとりの俳人として真剣に俳句へ精進したいと願う私と、二人の子の母であり、時と余裕の無い家庭をもつ私と、この二つの矛盾は始終私を苦しめました。(略)伸びよう、作ろうとする私の真剣な深入りは、ますます性格の相違からくる深い溝を(夫と私の)二人の間に横たわらせていき、いろいろの曲折を経たあげく、私の命のパラダイスであった俳句は、却って苦しみの種となりはてたのです。

○復活
永い冬も過ぎ、地には「はこべ」が蕾(つぼみ)をもたげ出しましたが、あなた様にはお元気でお暮し遊ばしまするかお尋ね申し上げます。さて私こと昨年11月以来箱崎(福岡)にて静養中のところ追々快方に向かい近日帰倉(小倉に帰る)の心ぐみでおります。ご寸暇の節はご短信でも頂戴しとうございます。(昭和2年2月付はがき)
 「大正時代の女流俳句について」(昭和2年2月箱崎にて脱稿)
 「俳句に蘇(よみがえ)りて」(「ホトトギス」昭和2年9月)

○ライフワークとしての女性俳句評論
 「大正時代の女流俳句について」(「ホトトギス」昭和2年7月)
 「婦人俳句についてのいろいろ」(「天の川」昭和2年7月)
 「大正女流俳句の近代的特色」(「ホトトギス」昭和3年2月)
 「女流俳句の辿るべき道は那辺に?」(「かりたご」昭和8年9月) など

○救いとしての俳句
偉大な自然を見つめ、詠みいづるには我々の心境を鏡の如く清澄にせねば詠めませんので、この点が、神経質な憂うつな現代人に心のゆとりと落ち着きを与え、知らず知らずのうちに、神のうるわしい啓示が私たち凡愚の小さい人間の心を平静に包んでくれます。
「俳句と生活について(初学者のために)」(「花衣」昭和7年6月)

○感情を客観写生で止揚する
新日本の女性はいたずらに感情のみにはせ、あるいは懊悩し、あるいは激情的にあるいは繊細な情緒に浸りて詠嘆すべきではなく、静かに大自然に懊悩を託し、人事に親しみ、客観的な落ち着きをもって、安心立命を得、(略)内面生活を豊富にし、悠々たる自己を創造したいものである。「大正時代の女流俳句について」(「ホトトギス」昭和2年7月)

○女性は何を詠むか?
婦人は、とかく男子のように吟行の折も少ないので、自然絶えず自己の身辺に眼をみはって、詩の材料を拾い上げることが、作句の一つの方法ともなるのである。(略)絶えず注意深く目さえ開けていたら、自分の周囲に必ず材料は転がっているし、また自己を中心として身辺坐臥の写生だけでも、一生つきないと信じるのである。「婦人俳句所感」(「天の川」昭和4年11月)

○女性が俳句を作る困難
どういうものか、最初のめざましい進歩の割合に、或るレベルまでいくともう一向上達もせず、また、男子方のように根気よく一歩一歩踏みしめつつ道に大成するというふうな作家が至って少ない。これは女性が家庭という重荷を背負い、かつ、根気や創作力において到底男子の敵ではないという点もむしろありましょうが、一つは、華やかな才気や詩藻にまかせ、あまりに器用にあまりに無造作にちょっとうまくなり過ぎるためではないでしょうか。「夕顔の宿より」(「かりたご」昭和3年10月)

○一丸となって―女性俳人の行進
一人の天才を育てる力は私にはないが、多数の同行者の手を引きながら、自分のかつて歩み辿ってきた道しるべをしたいと思います。ややともすれば飽きやすく、中絶しがちなご婦人方へ、『君よ一緒に手をとって前進しましょう!』こう呼びかけ、励ましたい。そして私も、皆様と共に、俳句の殿堂へ、一歩一歩前進したい。これが私の希望です。「婦人俳句について」(「天の川」昭和4年6月)

○地上の圧迫=配慮の必要
母として妻としての責任と多忙は、一個の女流俳人として芸術精進の切なる欲求、創みの苦しみ、自分を育てたいという尽きざる生命の願いと絶えず矛盾し、周囲からの絶えざる圧迫侮蔑に日夜苦しみ喘ぎつつ今日まで歩いてきた。「蕗莟(つぼ)む」(「俳句研究」昭和9年3月)

○女性俳句に託したもの
大正女流俳句より昭和の俳句は、確かに一転換しているようである。かくて大正、昭和の女流俳句が大成される時、はじめて俳句集出版の気運もすらすらと向いてくるかもしれない。近代女流俳句の黄金時代を夢見つつ私は歩んでいくのである。「近代世相の反映 女流俳句について」(「九州日報」昭和6年1月13日~15日)

 こうした久女の俳句評論を、久女研究の第一人者とも言ってよい坂本宮尾氏は、その著書『杉田久女 美と格調の俳人』の中で、「量の上でも久女の評論は他を圧している。理論派の書き手として、久女は現在に至る女性の俳人のなかでも、傑出した存在であることは間違いない。」と記していることを、中西学芸員は象徴的に言及されました。

 研究者として、資料をもとに組み立てを構成し、客観的に久女の女性俳句評論への姿勢を読み解いた中西学芸員の解説に、皆さん聴き入ったあっという間の1時間でした。中西学芸員をはじめ、文学館の皆様の今後の調査研究に、大いに期待とエールを寄せたいと思います。

平成26年 久女忌を終えて

 俳人杉田久女を偲ぶ『久女忌』が、1月21日(火)北九州市小倉北区妙見町の圓通寺(えんつうじ)で開催されました。
 冒頭、主催者である「久女・多佳子の会」の柿本和夫会長は、「今年は没後68年、当会が主催する久女忌は18回目となった。この18年を振り返ると作家田辺聖子氏の著作をはじめ久女の評価は明るくなった。昨年は俳句雑誌2誌で久女が紹介された。北九州は俳句熱が盛んな土地である。郷土が育んだ俳人久女を大事にしたい。久女の生涯は半世紀を超えて、語り継がれるようになった。久女の手記の中に「百年後の友を信じて」という言葉があるが、百年を待たずに全国から久女追慕の声が上がっている。今後も久女顕彰を続けて行きたい。」と述べました。


  主催者あいさつをする柿本会長

 

 ご来賓の北橋健治市長からは、「今年も久女のお孫さんの石太郎さんにお越しいただいた。お孫さんの代までご縁が続いている。若松の学術研究都市では授業にも関わっていただいており、ここでも北九州市はお世話になっている。久女が縁で、毎年『櫓山荘(ろざんそう)子ども俳句大会』も開催されている。子どもの文学活動が育まれ、俳句文化が若い世代に広がっている。「いそがしい父にもあげたい夏休み」「男の子神輿(みこし)をかつげば日本男児」といった句が印象に残っている。久女が昭和初期の堺町時代に詠んだ「朝顔や濁り初めたる市の空」という句があるが、公害の街からエコの街に生まれ変わり、このようにきれいになった北九州の空を久女さんなら今どう詠むだろうか。もう一度久女さんに詠んでいただきたいものだと思う。門司に三宜楼(さんぎろう)という古い料亭があり、保存活用が検討されている。その部屋の1つに高濱虚子が滞在したそうで、残すことができればと考えている。その虚子も杉田久女の天賦の俳句の才を見抜くことができなかったのではないだろうか。久女は森鴎外と並んで、北九州の文化の礎を築いていただいた女性のアーティストである。その功績は、時代を超えて高く評価されている。」とご挨拶をいただきました


  来賓ごあいさつをいただいた北橋市長

 


  ご挨拶のあと、林久照ご住職がお経を上げてくださる中、参列者約50名が一人ずつ久女が好んだ白菊を遺影に手向け、焼香を行いました。

 


  献花する白菊

 

 続いて、久女・多佳子の会の鈴木厚子会員が参列者を代表し、久女が春を詠んだ
     東風吹くや耳現はるるうなゐ髪
     ぬかづけばわれも善女や仏生会
     防人の妻恋ふ歌や磯菜摘む
 の3句を朗々と読み上げ、献句をしました。


  久女の句を読み上げ献句

 

 最後に、久女のご長女昌子さんのご長男で久女のお孫さんに当たる石太郎様から、「市長から心のこもったご挨拶をいただいた。私は昭和17年生まれ、今年年男である。鎌倉で生まれ、祖父の田舎の愛知県小原村に疎開した。母昌子の手記に『母親(久女)の最期を看取れなかった。父宇内が手にした白木の箱を見て驚いた。鎌倉に訪ねてきたのが母と会った最後であった。』という記述がある。小原村(現愛知県豊田市小原)は和紙や四季桜が有名で、『第2回おばら杉田久女俳句大会』が昨年9月に開催された。豊田市もモノによる支援から、精神文化への支援に取り組み始めた。櫓山荘子ども俳句大会は、自然の中での子どもたちの心の育ちに資するもので、小原も北九州に続いてほしい。両親が亡くなり(父一郎氏はアメリカ文学者、作家。母昌子氏は俳人、文筆家)、東京の両親の家の原稿、資料、本を整理している。パソコンが無い時代、文筆活動にエネルギーを費やすことはとても大変で、努力を要したことだろうと思う。精神文化に集う本日の集まりは、たいへんなものだと思う。久女・多佳子の会、市立文学館をはじめ俳句愛好者の皆さんの活動はたいへんすばらしいと思う。」とご挨拶をいただきました。


  石氏(久女のお孫さん)のごあいさつ

 

  久女忌に引き続き、講話会が行われました。講師に北九州市立文学館の中西由紀子主任学芸員をお招きし、『杉田久女と熊本俳壇の交流』と題して、約1時間に亘ってお話をしていただきました。


  中西学芸員の講話の様子

 

 久女が昭和3(1928)年に熊本の俳人有働木母寺(もっぽじ)宛てに出した手紙(市立文学館所蔵)や福岡や熊本で発刊された俳句雑誌(天の川、阿蘇)などをもとに、久女と熊本俳壇、特に中村汀女との交流を、資料を基に解説していただきました。同年2月9日付けの手紙には、長女の受験のため京都に上ることになり熊本行きを中止したこと、京都では俳人鈴鹿野風呂を訪問したいといったことが書かれています。京都には長らく滞在したようで、俳人吉岡禅寺洞が「京阪の旅」と題した「天の川」への投稿では、4月3日に久女らと京都の一休庵を訪れた際、部屋にあった南瓜(かぼちゃ)大の木魚を見て、『「なんですかねぇ。おほほほほ、あれは。あれを叩けば女中さんが出てくるんざあんすか?」久女さん相貌を変えて尋ねらるる。』との一文があり、中西学芸員は、久女は「ざあんすか?」といった言葉を使っていたのでしょうか、とおかしそうに感想を述べていました。
 また、俳誌「阿蘇」発刊を祝う一文「阿蘇の噴煙を遠く眺めて」(昭和4年10月)では、『さて、私が初めて熊本にまいったのは、確か大正10年の初秋だった様におぼえています。次女光子をつれて江津湖畔の汀女さんをお尋ねし、四五日滞在しました。(略)汀女さんは「お姉様お姉様」と私を親身の姉のように呼んでは、夜も蚊帳へ入ってからいつまでもいつまでも尽きぬ物語に更かすのでした。(略)熊本は、汀女さんこのかた私にとってまことに縁故の深いなつかしい土地である。まだ見ぬ阿蘇を遠く思いつつ、ここに皆様のご健康を祈ります。』と、汀女との交流の様子をつづっています。
 久女は、自身の俳誌「花衣」創刊時(昭和7年)に、結婚し俳句から遠ざかっていた汀女を再び俳句の世界に呼び戻しました。汀女を句妹と呼び、「句妹汀女を語る」といった一文を俳句雑誌に掲載したこともあります。まもなく汀女は高濱虚子の娘星野立子の「ご学友」に選ばれ、めきめきと頭角を顕わします。俳句を再開してからわずか2年後の昭和9年には、ホトトギス同人に迎えられますが、この少し前から久女と汀女の関係は微妙なものになっていった、そのようなお話をしていただきました。
 資料をもとに、研究者として、わかりやすく、エピソードも交えた語り口に皆さん聴き入り、あっという間の1時間でした。中西学芸員をはじめとする文学館の今後の調査研究に、大いに期待を寄せたいと思います。